大阪市鶴見区わらべ学童

指導員つれづれ
第121話
ことばの背後

皆さんがご承知のように、人間にとって「ことば」は、コミュニケーションの大事な手段です。

私自身も子ども達に「言うてみんとわからへんやん?」と働きかけることがありますが、時折「あ〜!エスパーになりたい!!」と思うことがあるくらい、黙りこんでしまった相手の思いを引き出すのは至難の業です。

しかし厄介なのは、「ことば」は使い方によって、コミュニケーションに支障をきたすこともあります。

違う文化や文脈で、言葉のニュアンスが微妙にずれてしまったり、こちらの思いと違ってとられえられたり、場合によっては相手を傷つけてしまうこともあります。

例えば大阪弁の「アホ」は、長崎出身の私には、周囲がまるで連呼しているように思えてならないのですが、状況に応じて同じ「アホ」にも様々な意味があるようですし、深刻に受け取られるケースは稀なようです。

長崎弁で置き換えるなら「バカが・・・」なんですが、これには大阪の人は大きく傷ついたり、怒り出したりするとか・・・こちらにそんなつもりはなくても。

大人から見ると、本当に些細なことでも傷ついたり傷つけたりしている子ども達ですが、原因のほとんどは、まだ表現がうまくいかなかったり、ボキャブラリーが少ないのが主な理由です。

例を挙げるなら、すぐに「うざい」とか「ボケ」「死ね」と、単語で片付けてしまったりすることが典型的。

本人は軽い気持ちなのかもしれないけど、相手はとってはそうはいきません。

そのうち「言った本人の周りから人が消えていくのではないか」と心配になることでしょう。

表現の多彩さは、コミュニケーションを取るのに重要な要素となります。

日本語は、様々な言い回しや風情があり、ちょっとした心情の違いを伝えるのに、世界的に見ても大変優れた言語であると言われています。

しかしその日本語も、言い訳、文句や愚痴、無駄口、陰口や悪口・・・言わなくていいことに使うとすれば、ある種の武器にもなってしまいます。

そんな言葉は他人も自分も傷つけて、自分の価値さえ下げてしまったり、関係を破壊する結果を招いてしまうのです。

自分の口をコントロールしないわけにはいかないのですが、古来より人はそれが苦手のようです。

「○○君、宿題まだしてへんやろ?」と言うと、「ちゃうねん、ちゃうねん!」はお約束。

「いや、なんも違いません!」と返すと、キョトン・・・。

「さるせんトイレ!」「いやいや!さるせんはトイレじゃありません!!」(笑)が日常なのです。

また、「思いやり」という想像力の欠如も、大きな要因の一つだと思います。

「この言葉を相手に投げかけた時、相手はどう感じるだろうか?」と、「ことば」を吐く一つ手前で考える作業をするという訓練が足りていないためなのではないでしょうか。

「そんなことばはつかってはいけません!」という指導も大切ですが、口の前に戸を立てているに過ぎず、根本的な解決にはなっていない気がします。

やはり大切なのは、まず内面を整えるということではないかと思うのです。

その「ことばの背後」にある思いに寄り添いながら、聞いた相手がどう思うか考えるよう促すプロセスが必要に思えてなりません。

内側が整えられることで、外側に出てくることばも、美しく、なぐさめと励ましに満ちてくるのではないでしょうか。

その上で、様々な言い回しや風情、を表す表現力が豊かな「日本語」を、伝えてゆくプロセスが必要であると思うのです。

最近の言葉で、「怒る」を表現する「激おこぷんぷん丸」は6段活用であると知り大変驚きました。

(第1段階)おこ、(第2段階)マジおこ、(第3段階)激おこぷんぷん丸、(第4段階)ムカ着火ファイヤー、(第5段階)カム着火インフェルノ、(最終段階)激おこスティックファイナリアリティぷんぷんドリーム・・・第4段階以降については、怒っているのか違うのか、その前に一体何が言いたいのか、まったく理解できない昭和43年生まれの私です。(笑)

私たち大人が、果たして本当に「ことばの背後にある思いに寄り添いながら・・・」子どもたちと接していけるのだろうかと不安になってしまいますが、そのプロセスを省いて成長してしまうことの恐ろしさ考えると、「地道な努力」という処方箋しかないように思うのです。

by.Sarusen


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