第122話 |
2月度の会員の会で、「自立を促す」というテーマで、短く講演させて頂きました。
「自立」とは、心や身体が離れていくものではないので、突き放したり纏わりついて育つものではないのですよ。
自立を促すために、「うち」の価値観と「よそ」の価値観の違いや、価値観の材料を提供していく作業が必要ですよ。
だんだん「家族 < 友だち」になっていくのが健全な姿で、そこから本当の親離れが始まりますよ。
価値観は通常10歳までに原型が確立するそうで、いずれは巣立つ我が子の為にしっかり価値観を育てる必要がありますよ。
「発達」に照らして、以上のような内容でお話しさせて頂きました。
ここで言う「発達」とは、人間の成長プロセスを指し、遥か昔から私達の身体や脳が記憶しているレベルを超えて、成長を支えてきた言わば設計図のようなものです。
その設計図に沿って、深い愛情と共に、成長過程の子ども達に適切な援助や指導をすることが、「子育て」ということであり、私たち職員の教則本でもあります。
ということは、「発達」とはスタンダードであり、決して無視できないものであるはずが、近年、ますます専門化が進み、馴染み難い、遠い存在になりつつあるような気がしてなりません。
「発達」は学問でもありますが、それ以前に、継承していかねばならなかった形(かた)であり、常識ではなかったのでしょうか。
古き良き時代にあっては、口頭や習慣の中で伝承されてきたのでしょうが、時代の流れの中にあって、文字や文章がその手段となり、どんどん専門性を高め、学術的になっていったのかもしれません。
もはや常識と非常識の境界は殊更わかりにくくなり、「ウチノヤリカタ」というローカル・ルールがまかり通るようになってしまったわけです。
故中村勘三郎さんが、まだ勘九郎を名乗っていた19歳頃のこと、唐十郎の歌舞伎を見て感動し「俺もあのような歌舞伎がしたい」と、先代の勘三郎(父親)に言ったら、「百年早い!そんなことを考えてる間に百回稽古しろ!」と叱られたことがあったそうです。
後年、「守るということと挑戦することとあってね。両方やっていきたいんですよね。よく言うんですが、稽古をして形(かた)を持ってる人が形を破るから形破りでね、形を持ってない人がそれをやると、ただの形無しになっちゃうんです。」と語っておられました。
そこには「古典をしっかり学んで自分の形をつくれ。未熟な者が土台も無いのに新しいことをやるな」という意味が込められています。
日本の伝統芸能である歌舞伎と並べて良いかどうかは別にして、どうも「発達」に通ずるものがあるような気がしてなりません。
スタンダードな道を通らずして、見た目の良い、奇抜なことをしていても、結局は立ち行かなくなることを、勘三郎さんの言葉が示しているように感じるのです。
人間の成長に不可欠な、発達に配慮しないということは、「何かしらの弊害が出ても仕方がない」ことを受け入れざるを得なくなるのではないかと心配してしまいます。
それは、いくつになっても「学んでみよう」という好奇心と、人としての謙虚さが問われる瞬間でもあると思うのです。
by.Sarusen