指導員つれづれ

★第98話「いのち」★


この間の出来事を通じて、「いのち」について、子ども達と一緒に考える機会がありました。

私達の「学童保育」で、まず第一に取り組まなければならないのは「安全管理」です。

どんなに素晴らしい保育も、またどんなに盛り上がるイベントも、「安全管理」が抜け落ちてしまっていたら、「学童保育」の存在価値はないと考えています。

それは、「学童保育」が、子どもの「いのち」を守るための場所だからです。

また、子どもの「いのち」を手塩にかけて育みながら、「いのち」の大切さや尊さをしっかりと伝える場所だからです。

愛されている存在なのだと気づく事や、自分達が幸せに暮らす背景には他者の努力や頑張りがあると知る事、他の生きものの生命を頂かないと生きて行くことができないと知る食育の機会・・・「いのち」を守り育てる方法はあらゆる場面にあり、私達指導員は、常々意識的に伝えようという試みを繰り返しています。

いつもは生命力の塊のような存在である子ども達が、必ず出会ってしまう悲しい出来事の一つに、「死」があります。

「いのち」の終焉である「死」は、意識していなくても必ず「いのち」のそばにあり、その存在を脅かしたり、万人に臨むことから、幸せな臨終を迎えたいという漠然とした目標になったり、知人や親族を悲しみの淵深く突き落したりします。

「生」を経験して語ることはできても、「死」の経験は誰にも語る事ができません。

自宅で「いのち」の灯が世に生まれ出でる瞬間にも、消えゆく瞬間にも立ち会う機会がなくなり、「生」も「死」も、どこか縁遠くなってしまった現代社会の中で、「生」や「死」の問題を避けながら、「いのち」を守り育てる事はできないのではないでしょうか。

今回、わらべ学童の子ども達が、指導員からの「いのち」に関わるメッセージを、どうとらえたかは、今はまだ分かりません。

最後のイベントにかける思いが人一倍強かったであろう6年生や、個人種目に意気込んでいた子ども達をはじめ、多くの子ども達が、素直に「残念」だと思ったでしょうし、「悔しい」と思ったのではないでしょうか。

しかし、その正直な感情をも横に置いて、「一番残念で悲しいのは誰なのか考えてほしい」と、指導員は訴えました。

それは、年老いて我が子を突然失ったご両親であり、優しい兄を失った妹であり、いつも「お帰り」と迎えてくれていた笑顔に二度と会えない学童の子ども達なのではないかと話しました。

ある女の子は、静かに落ち込み、そしてじっと考え込みました。

ある男の子は、「その学童の子たち、うちの学童に招待したら?」と、アイデアを出してくれました。

彼らなりの、一番残念で悲しい人たちに心を寄せ、笑顔が戻るのを待とうとする姿勢に、心から感謝すると同時に、私たち大人が持つべき責任や自覚に気付かされました。

「生」や「死」の問題には、結論や模範解答がたくさんあり、どれが正しく、何が間違っているか、論じ切ることなどできません。

しかし、その問題を軽んじる事だけは、絶対にすべきではないと考えています。

結論が出ないからと放棄することなく、しっかりと向き合うべき時に向きあわない事が、「いのち」の存在をさらに軽くしていくような気がしてなりません。

「死」の問題は、まさに「生き方」の問題であることを、改めて肝に銘じたいと思いました。

by.Sarusen

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